1939(昭和14)年、小学校施行規則が改正され、武道が小学校「体操科」の準正課に位置づけられ、尋常小学5年以上及び高等科の男子に授業時間外に教授されることとなりました。
「小学校武道指導要目」では目的と実施方法について、次のとおり定めています。
・武道(柔道・剣道)の簡易な基礎動作ををおこなわせることで、心身の錬成をはかり、武道精神を涵養する。
・正課時間外に週2回、各30分実施。
・指導者は学校の教員に限る。
・指導は戸外運動場にて、集団でおこなう。
・剣道は木刀・竹刀を用い防具は使用しない。柔道は柔道衣を使用しない。
そして、これに「講話」(国語、歴史の教材を用い、武道の意義、武道精神を涵養)をあわせて実施することで目的が達せられるとしています。
「手足が軽くなるサポーター」(年不詳)
運動会や徒競走で、「ここぞ!」という時には靴を脱ぐ、「ハダシが一番速い!」と信じて疑わなかった子どもの頃、駄菓子屋の店先に「くじ」やスーパーボールなどと一緒につるされていたものです。「手足が軽くなるサポーター」とうたっていますが効果のほどは定かではありません。いや、それを問うのは無粋というものでしょう。走ることが、スポーツすることがただただ楽しかった、楽しいだけで十分であった子どもの頃の話です。
いつの間にか真面目ごとの世界に立ってしまった私には、詩人・谷川俊太郎さんの「あの青い空の波の音が聞こえるあたりに 何かとんでもないおとし物を 僕はしてきてしまったらしい」(「かなしみ」『二十億光年の孤独』)の一節が切なくリフレインしてきます。
大正から昭和初期は「モダン」が流行し、都市の大衆文化が花開いた時代です。女性の社会進出が進み、電話交換手、バスの車掌、ウェイトレスなどが職業婦人と呼ばれるようになりました。
「少女スポーツ双六」は『主婦之友』大正14年1月号の付録です。『主婦之友』は洗練されたモダン・ガールが登場し、流行の最先端を紹介するファッション情報誌でもありました。襟付きの白い半袖シャツにタータンチェックのテニスウェア、帽子にジャケット・スカートのゴルフウェアは最先端のファッションです。
スポーツは明治時代には「女性にはふさわしくない」とされていましたが、少しずつ女性がスポーツすることへの理解が広まり、大正時代末には高等女学校の生徒たちがテニス、水泳、陸上競技、野球、バレーボール、バスケットボールなどをおこなうようになり、スポーツ少女が憧れの的になります。
スタートの「振り出し」は、白い帽子に紺のセーターと白地に赤のVネックセーター姿での入場シーンです。テニス、水泳、ヴァレーボール、バスケットボール、ベースボール、ゴルフ、ランニングなどのマス目を経て、銀の優勝カップでゴール「上り」です。ゴール直前には「結婚」のマスがあります。6の目が出れば「新世帯が忙しくて、スポーツなんかしていられないからゲームから脱退」、1の目が出れば「トロフィーをたくさん携帯してのお嫁入り」。
当時、女性の初婚年齢は平均23歳。女性は結婚によって、スポーツが出来なくなってしまう時代でした。
日本がオリンピックに2回目に参加した第7回アントワープ大会(1920年)では、庭球の熊谷弥一がシングルス2位、熊谷・柏尾誠一郎組がダブルス2位の好成績をあげています。 『オリンピック大競技双六』は、この大会が開催された年のはじめに、少年たちに絶大な人気を博していた雑誌『少年倶楽部』の附録です。
万国旗がはためく競技場風景の右には、優勝旗を手にした選手が大きく描かれています。中央では正装の男性やカーキ色の軍服姿の人が立ち並ぶ中で表彰式が行われています。左下にはタータンチェックのキルトスカート姿の吹奏楽団も見られます。
コマの進め方はトラック競技と同じ反時計回りに進む数字で表され、普通に進む黄色コマに混じり、連続して進むことができる青色コマには加速を意味すると思われる「ヘビー」「最後ヘビー」、また、逆戻りしなくてはならない赤色コマには「鹿砦」「河川」「塹壕」「高跳」「急坂」などと記され、山野をめぐる障害物競走を想起させる構成となっています。
ゴメ玩具版(1951)。作者不詳。
スポーツ双六からみる社会・世相④ ~夢・希望‥、スポーツのチカラ~
『スポーツ双六』(1951)は、人々の夢と明日への希望がスポーツに託されていた時代を象徴する一枚です。戦災からの復興がようやく実感できるようになり、スポーツ界の明るい話題もその一役を買っていました。
「上がり」には、月桂樹を冠するヘラークーレスのような男性と五輪マーク。実際には、日本のスポーツ界は国際舞台から締め出されていました。1948年のロンドン五輪でも、敗戦国日本の参加は認められなかったのです。
そんな暗雲を、右上の大きな顔が吹き飛ばします。ロンドン五輪水泳競技と同日に開催された日本選手権の400,1500メートル自由形で金メダリストの記録、さらに世界記録をも上回った「フジヤマのトビウオ」古橋廣之進選手です。左下は初代「ミスタータイガース」の藤村富美男選手です。プロ野球は、戦前は職業野球として蔑視されていましたが、「赤バット」の川上哲治、「青バット」の大下弘、「物干し竿」の藤村の登場によって人気が急上昇していました。
明治、大正、昭和と双六に描かれたスポーツを見てきました。時世時節は変わろうとも、スポーツは“楽しみ”であり、活躍する選手は“憧れ”であることに変わりありません。スポーツは実力と運をかけて競争しますが、勝利は実力による「必然」の結果とされます。スポーツの双六には、スポーツにおける「必然」とサイコロによる「偶然」の相反する“おもしろさ”が凝縮されており、さながら人生の絵巻物のようです。
『朝日』第1巻第1号附録(昭和4年1月発行)。編集局/案、中村進/画
スポーツ双六からみる社会・世相③ ~世界へ雄飛する日本スポーツ~
日本選手が国際的な活躍を見せ始めた時代に発行されたのが、『新案スポーツ双六』(1929)です。
「ふり出し」は、日の出の勢いであった吉岡隆徳選手のイメージでしょうか。1930年極東選手権の男子100メートルで日本選手として初優勝を遂げ、1932年のロサンゼルス五輪でも6位入賞を果たし、“暁の超特急”として名をはせました。
1コマ進んでテニス。左端の人物は1932年から2年連続、ウィンブルドン大会シングルスで4強入りした佐藤次郎選手を彷彿させます。戦前の日本はテニス強豪国の一つに数えられていました。水泳も1932年ロサンゼルス五輪では、男子6種目中5種目で金メダルを獲得し、「水泳ニッポン」の名を欲しいままにしました。
女性がプレイするのはバスケットボールだけで、他に卓球を観戦する着物姿が見えるだけです。男性向け雑誌であるとしても、女性がスポーツをすることへのまなざしの偏りを感じます。
外来のスポーツが多くのマスを占めるなか、柔道、剣道、弓道、相撲もしっかり描かれています。「武道は外来のスポーツとは異なる日本古来、固有の文化である」とする主張がそこにはあります。
スポーツによって躍動する身体が、マス目から飛び出してくるようです。しかし、徐々に軍靴の足音が高くなり、スポーツも戦争に利用されるなど、悲しいスポーツの時代へ突入して行くこととなります。
「新案」とは、遊び方に「飛び双六」と「点取り競争双六」の2通りの意味があるようです。
『少女倶楽部』第5巻第1号附録(大正16年1月発行)。田中比左良/案・画。※実際は「昭和2」
スポーツ双六からみる社会・世相② ~モガが拓いた、女性のスポーツ~
大正末から昭和初期の日本は「モダン」の語が流行し、都市を中心とする大衆文化が花開いた時代です。竹久夢二の美人画が絶大な人気を得、メディアや広告には洗練された「モダン・ガール」(モガ)の図像があふれました。『少女スポーツ双六』(1927)もそこに位置づけられます。
ショートカットのヘアスタイル、色鮮やかなウェアの少女たちは、当時の流行最先端の「モガ」を彷彿させます。競技名も「ホ・ス・ジャンプ」「ブロードジャンプ」「ハイジャンプ」とカタカナの名称が続き、ファッションと同じように西洋文化のスポーツを颯爽と楽しんでいる姿が見て取れます。
当時、女性の社会進出が進み、バスの車掌やウェイトレスなど職業婦人が出現していました。しかし、現実は、まだまだ女性がスポーツをすることが世間に認められていませんでした。
裏面には「全日本女子運動花形選手と最新記録」が、選手のブロマイド写真とともに載っています。そこには日本選手による世界記録が5つあげられ、そのうち、100メートル、200メートル、走幅跳び、立高跳び、三段跳びの4種目を人見絹江選手が保持しています。
中央に、より大きく描かれた、きらびやかな優勝カップを抱える少女の姿の象徴されるように、人見選手などの活躍によって、それまでもっぱら男性の専有物であったスポーツにおいて、女性による女性のための道が切り拓かれて行くことになるのです。
『少年界』第6巻第1号附録(明治40年1月発行)。笠間酔雨/案、宮川春汀、田代古崕/合作
スポーツ双六からみる社会・世相① ~銃声一発! 西洋からスポーツの伝来~
お正月の遊びの一つに「双六」があります。日本では、江戸時代に木版技術の進歩によって発達し、明治時代になると、当時の流行や世相を反映したさまざまなものがみられるようになり、児童雑誌の新年号の付録として欠かせないものになりました。
スポーツをテーマにした双六から、スポーツ界の今昔世界を見てみます。
『少年運動双六』(1907)は近代スポーツが外国人教師、留学からの帰国者らによって日本ヘと紹介され、大学を中心にして花開き、大衆にも浸透していった日本スポーツ界の黎明期のものです。
右下「振出し」のスターターがライフル銃を構えている「競走」から、中央「上り」の「ボートレース」まで、「提灯競走」「俵運び」のような生活に根差したものから、ヨーロッパの遊びで1904年セントルイス五輪でも実施された「樽抜け」、今日でもおなじみの競技でも「撃剣」(剣道)、「棒飛」などと名称が異なり、和洋折衷です。
服装を見ると和服、洋装の運動着姿が入り混じり、「柔道」は短袖短袴で畳は無く、板間で投げられています。用具でも「フートボール」のサッカーは、足元をよく見ると草履で蹴っていますし、「木馬」は文字通りの木の馬です。