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薬店チラシ「食べ合わせ」

戦前における薬店のチラシです。「食べ合わせ」が描かれています。

 薬の広告だけでしたら一読して捨てられれてしまうかも知れませんが、食べ合わせがあることで、壁に貼ったりなど、保存しておく可能性が高くなると考えられたのでしょう。

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起倒流伝書 『天巻』

 

起倒流は、天神真楊流とともに講道館柔道の基盤となった流派として知られます。

起倒流には今日に伝わる重要な伝書が5巻(『本體』『天巻』『地巻』『人巻』『性鏡』)あります。

 『天巻』には、起倒流の最重要概念である「本体」が説明されています。 

 

当流に、本體と云ふことを始めに示す。本體とは何を云かとなれば、心裏虚霊にして神気不動の貌をさして云ふ。敵に対するに爰に敵ありとの意起るときは、動ずるもの顕はる。動ずるに至りては一身空し。敵と見てしかも不動。虚霊にして安泰する所、本體備はるなり。是を不動智と云ふ。

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大日本武徳会

 大日本武徳会は、1895(明治28)年に各武術、各流派を統轄し、国民の士気の高揚と武術の保護・振興をはかるために設立された組織で、皇族を総裁にし、各府県に支部を置き、知事を支部長とする半官半民組織の巨大な勢力をもっていました。日中戦争下の1938(昭和13)年には会員数は300万を越えていました。

  1946年(昭和21年)、GHQ指令により強制解散となりました

大日本武徳会会員之証 会員之章

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台湾に現存する旧武徳殿

 日本統治時代、武道と尚武精神を広めるため、大日本部武德会が台湾の各地に武德殿を建てて、武道館としました。

  戦後、さまざまな用途に転用され、荒廃していたところもありましたが、1990年代末には多くが文化財に指定、整備され、日本文化の紹介、観光、文化施設などに使われています。

台南・忠義小学校講堂 (大日本武徳会 台南支部)

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彰化市武徳殿

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1930(昭和5)年落成

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高雄市武徳殿 (大日本武徳会 高雄支部)

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1924 (大正13)年落成

「大日本武徳会」高雄支部であり、「振武館」と呼ばれていました。現在、剣道の稽古もおこなわれています。

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高雄・旗山武德殿藝文中心(旗山武徳殿

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1994年の火災によって外壁を残し消失、2000年には再建工事が行われましたが、屋根全体に強化ガラスが採用されたため、不評を買っていました。その後、カフェとして使用された期間を経て、2014年には再度、修復工事が行われました。現在は展示ホールになっています。

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 旧武徳殿の背後に広がる中山公園は、終戦まで鼓山公園と呼ばれていました。旗山神社が鎮座し、山全体が神苑とされていました。

 現在は復元された参道脇には、これまた復元された石灯籠が並んでいます。参道を上がった先は、「高雄市孔子廟」によって削り取られてしまっており、わずかに神社があったことを示すモニュメントがあります。

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 第5代台湾総督佐久間左馬太が記号した「精忠護国」碑は今も往時の姿を留めています。

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女相撲 ②高玉一座

高玉一座

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(明治末期)

女相撲 ①石山女相撲

 「女相撲」は『日本書紀』にも見られ、江戸時代には興行としておこなわれるようになり、明治になると禁止令が出されるほどの熱狂ぶりとりました。

 明治から昭和(戦前)までの女相撲興行団は「高玉一座」と「石山女相撲」に代表され、海外巡業を実施するほどの成長を遂げます。1930(昭和5)年には石山女相撲25名がハワイにて約半年間の興行をおこない、1936(昭和11)年には高玉一座が南洋諸島と呼ばれた地域(サイパン、トラック、パラオなど)へと巡業に出かけています。

 石山女相撲

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(明治末期)

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(明治末期)

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体力章検定 徽章

 1939(昭和16)年に国民の体力向上を図るため、かぞえ年1525歳の男子を対象として「体力章検定」が課されました。「走」100m、2000m、「跳」走り幅跳び、「投」手榴弾投げ、「運搬」運搬50m、「懸垂」の能力が計測され、全種目で基準に合格すると初級、中級、上級、それぞれの徽章(バッジ)が授与されました。

 当初の合格率は2割程度、上級合格者は1パーセントにも達しませんでした。

 このほか特殊検定種目として、水泳(200m完泳、7分間泳、50m1分25秒以内)、強歩(20キロ4時間以内)、武道検定なども実施されました。(『<体育とスポーツ>の世界史』)  

 

体力検定章

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上段左より、初級、中級、上級

中段左は特技検定種目章、右は不明(徽章が後に布製に変わったものか?)

下段は、体力章検定員章

体力章の構図

中央の「鏡」は皇道精神を表し、四方に向かった矢型は東西南北の四神、東(青龍)、西(白虎)、南(朱雀)、北(玄武)を示しています。進行形の矢型は強さを力を示し、体力気力の表現です。矢型と鏡の色との5色は、体力検定章5種目の調和的発達を示しています。『體錬手帳』

厚生省制定体力章検定標準(15才以上25才まで)

上級    中級   初級

「走」100m走      14秒     15秒    16

2000m走   730秒      8分     9

「跳」走幅跳     4m80cm     4m50cm       4m

「投」手榴弾投       45m        40m       35m

「運搬」    60kg/-15 50kg/-15 40kg/-15秒(50/60)

「懸垂」        12回     9回     5 

 

体力章検定証Photo 

(9.2×13cm)

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「写真週報」昭和13年2月12日

 

体力章検定規格手榴弾

 戦前、「体力章」検定のなかの手榴弾投げで用いられていたものです(左)。底部には「体力章検定規格手榴弾 美津濃 謹製」と刻まれており、重さ535グラムです。右は「九九式手榴弾訓練用」で「安全ピン」が装着した、よりリアルな形ですが、陶器製のため重さは371グラムです。

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 日中戦争から太平洋戦争勃発に至る国家総動員体制のなかで、陸軍の要求によって1938年に厚生省が新設され、国民体力の向上を目指した調査や企画などを行う体力局が置かれました。翌1939年には「体力章」検定が制定され、「走」100m、2000m、「跳」走り幅跳び、「投」手榴弾投げ、「運搬」、「懸垂」 などが種目となっていました。

  厚生省制定体力章検定標準(満15才以上25才まで)

  投 手榴弾投

   上級 45m 中級 40m 初級 35m 

   級外甲 30m 乙 25m 丙 24m99cm以下

 戦後、昭和39年から実施されている「体力・運動能力調査」、平成11年度から導入された「新体力テスト」にはソフトボール投げ・ハンドボール投げがあります。「体力」を把握するのに、投擲力をみる理由は何でしょうか。

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ただ投げるのでなく、精神を打ちこまなければならない

 秀一たちの組では、第2時限から3時限にわたって、体力の試験がおこなはれました。けふは手榴弾投げと、懸垂の2種目が試験されるのです。試験が始まる前に、先生は生徒を集めて、訓示をあたへました。

 「これから手榴弾投げと懸垂の試験をします。手榴弾投げは、戦場において塹壕戦や市街戦など、敵と接近しての戦闘にたいへん必要なものです。であるから、手榴弾はただ投げるといふことでなく、投げるたまに精神を打ちこまなければならない。精神を打ちこんで、力のおよぶかぎり遠く、そして、ある目標に向かって、まっすぐに投げなければなりません」。

『日本人はどれだけ鍛へられるか』新潮社、1943年、p.104。愛媛大学図書館蔵

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手榴弾投擲(木柄付手榴弾)、銃剣術の訓練風景

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