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くすり広告(絵はがき) サロメチール

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(絵はがき)

日本において近代スキーが定着し始めるきっかけとなったのは、1911(明治44)年、新潟県高田(現・上越市)でオーストリア人のレルヒ少佐が陸軍軍人に指導したことでした。レルヒが伝えたのは杖1本でスピードをセーブし、低速で安全確実にどんな斜面でも滑り降りる技術でした。

1930(昭和5)年、オーストリア人のハンネス・シュナイダーが来日、各地で指導したことにより日本のスキー技術は飛躍的に発展しました。雪上の移動手段から、急斜面でも安定して滑り降りることのできるスポーツへと進化を遂げたのです。

この絵はがきは「サロメ―チール」の販売促進用でスキー場などで配れたと思われます。

サロメチールは1921(大正10)年に田邊元三郎商店(現田辺三菱製薬)から発売されています。1933(昭和8年)には、雑誌にてランニングや剣道、野球などのスポーツ疲労への効能を宣伝しています。1937(昭和12)年、後楽園球場が開設されると外野席に初のフェンス広告を掲示、一層のスポーツ愛好者での利用をうながしました。

絵はがきの発行年は不明ですが、表面(宛先・住所)の様式から、1918(大正7)年から昭和7(1932)年の期間に発行されたと推定されます。
 

くすり広告 清妙膏 万金膏

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(27.5×39cm)

体格がよく、力強い力士は、薬の宣伝によく用いられるモチーフです。

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大日本連合青年団 体力章

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 (1.3cm)

左:中級、右:初級

「大日本連合青年団」は1925(大正14)年に結成され、1934(昭和14)年に「大日本青年団」と改められています。

わかもと新案出世競争双六(1937)

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わかもと本舗栄養と育児の会

小学校を卒業してから実業家や外交官など憧れの職業になるまでのストーリーが双六になっています。大衆薬の販促品でしたが、価格も書かれていることから希望者には販売もしていたと思われます。

この双六の遊び方は、ちょっと変わっています。右上の「の作り方」には、次にように書かれています。

「玩具屋で土の賽を売っていますが、お家で作るにはお餅でも大根でもお芋でも結構、それを立方体(しかく)に切って、『修養』『勤勉』『理想』『病気』『困難』『怠惰』とお兄様か、お姉様に文字を入れて頂ければ立派な賽が出来ますよ」

サイコロが餅、大根、芋を用い、数字ではなく人間の性(さが)を描くようにもなっています。

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上りは当時、男の子に人気のあった職業となっています。

かなり傷んでいますが、折り目には幾重にも裏打ちがされていることから大切にされてきたことが伺えます、将来の「夢」を描く子どもたちよって繰り返し遊ばれていたのでしょう。

くすり広告 毒掃丸

明治時代の「薬」の広告

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(38×25cm)

むかしは「身体の中の『毒』が原因で病気になる」と考えられていましたので、その「毒」を体外に出す薬が求められていました。

薬の服用前と服用後の姿を比較した絵の中で、全治の美人と1ヶ月服用した紳士が描かれています。

現代の薬機法(旧・薬事法)のように広告に厳しい規制がない時代ですので、病状及薬の効能には、かなり大げさ、誇大表現が見られます。

くすり広告 脾肝薬王円・胸和散

明治時代の「薬」の広告

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(35.4×50.7cm)

肝臓、脾臓、腎臓、心臓、肺臓それぞれの症状に効果があることを絵入りで紹介しています。病気の症状は深刻ですが、どこかユーモラスが感じられます。

近畿府県連合 健康週間 大阪府 徽章

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(径2㎝)

健康が「個人」の問題ではなく、「家」の繁栄、そして「国家」の益へとつながるものであることが強調されています。1932(昭和7)年刊の医学雑誌の間にはさまれてありました。

前近代の健康と言えば、貝原益軒の『養生訓』が有名ですが、そこには「健康」の語はありません。「健康を保つこと」というように現代語訳されている箇所は、原文では「よくわが身をたもつべし」となっています。

明治となって、新しい時代の健康観をもっとも体系的に繰り広げたのは、啓蒙思想家の西周(にし・あまね)です。彼は、1875年(明治8)年に『明六雑誌』に寄稿した論文のなかで、「人ノ世ニ宝タル者三ツアリ」といい、「第一に健康、第二ニ知識、第三ノ富有ノ三ツノ者」と主張しています。そして、これらの「三宝」を軽視したゆえの報いの到来が、きつく警告されてます。「健康」にたいしての「疾病」、「知識」にたいしての「愚痴」、「富有」にたいしての「貧乏」が、それぞれ「禍鬼」(かき)と罵られています。人間としては本来同等でも、この三宝の多寡・有無によって、おのずから価値に差が出るとしています(鹿野政直『健康観にみる近代』朝日選書,2001)。

京都市健康優良児表彰 受賞記念文鎮(1932)

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(7.1×5.8㎝,厚0.5㎝,145g)

引札 自転車 (1904)

 

 

 

 

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(26㎝×37.6㎝)

 

「引札」は江戸時代から大正時代にかけて、店や商品の宣伝のために作成された広告物です。店先に掲げたり、顧客に配布したり、お年賀としても用いられていました。明治から大正期の引札には強い色彩と大胆なモチーフの組み合わせで目を引くものが多くなります。図案には、目新しいモノや話題になっているモノ、めでたいものが採用されています。

 

この引札からは明治37(1904)年当時、自転車が目新しく話題性の高いモノであったことがわかります。

 

明治40年代に流行した神長瞭月作詞・作曲のバイオリン演歌「ハイカラ節」は「自転車節」とも呼ばれ、次のような歌詞があります。

 

チリリンリンとやってくるは自転車乗りの時間借り 曲乗りなんぞと 生意気に 両の手放した シャレ男 あっちへ行っちゃヒョーロヒョロ こっちへ行っちゃヒョーロヒョロ それあぶないといってるまに ころがり落っこった

大日本体操 厚生省制定

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大日本体操(一般向)

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大日本青年体操(男子青壮年向)

大日本女子青年体操(女子青壮年向)

女子青年体操(1934)

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工場鉱山体育研究会考案「女子青年体操」財団法人協調会発行

「我が国に於ける女子労務者はその数に於いて、またその技能に於いて我国産業上に極めて重要なる地位を占むるは此処に〇言を要しない。従て之が健康に関する指導の如何は一刻も〇がせにすべからざる緊要こ事である。而して、我国女子労務者の主体をなすものは実に繊維工場に於ける女子労務者である。ここに於いて、本研究会は数次に亘り繊維工場の実際を観察し、之が作業状態につき、また作業による疲労部位につき詳細周到なる調査」によって研究され、発表された。

「本体操は、終始女子に適はしき優美なる動作の連続により律動的に構成されているので、単に女子労務者のみならず、また一般女子のためにも適応され得るものである」はしがき

体力手帳 厚生省

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『体力手帳』は1940年(昭和15年)に成立し、1954年(昭和29年)に廃止された旧国民体力法に基づき厚生省(現在の厚生労働省)が発行していたものです。目次裏には「この手帳は国家が国民の体力を管理して、立派なる皇国民とするために交付する」とあります。

徴兵検査に際して男子の体力低下傾向が見られたために、廣田弘毅内閣の陸軍大臣であった寺内寿一が「国民体力向上」を提唱したことを契機に青少年の健康管理を目的として導入されました。当初は17歳から19歳(数え年、以下同じ)の男子が交付の対象でしたが、戦局の拡大につれて1941年(昭和16年)には交付開始年齢が17歳から15歳となり、翌1942年(昭和17年)には上限が25歳に引き上げられました。

表紙に描かれているのは“巌瓮と魚”(いつべとうお)と呼ばれる日本神話の故事で、次のようにその由来が説明されています。

「神武天皇の御偉業成就の前兆が丹生川(にぶのかわ)の御祈に顕れたといふ古事に因んで皇国の理想の達成せらるべきことを象徴し又「縄文模様と弥生式土器」は皇国民族が古代に於て既にかかる優秀な文化を有し居つたことを示し、皇国民族の大生命の悠久に発展すべきことを意味したものである」

日奈久の板相撲

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熊本県八代市日奈久温泉の木製玩具です。

力士の両腕の真ん中の穴に棒を差し込んで動かすと、相撲をとります。

天保年間、肥後国で名をはせた関取「嶋ヶ崎宇太郎」は横綱に挑戦しようと江戸に向かう途中で両国回向院の阻止に逆らい、毒殺されことから、嶋ヶ崎を偲んで作られたとも伝えられています。

旧(初代) ラジオ体操第一・第二

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ラジオ体操は1928年(昭和3年)、「御大礼」記念に国民的事業をおこないたいと考えていた逓信省簡易保険局が、被保険者や一般国民の健康状態の改善を促すための種々の研究をおこなったすえに、アメリカのメトロポリタン生命保険会社のラジオ体操を参考にして、日本放送協会、文部省と協力して考案したものです。当時の名称は「国民保健体操」でした(『ラジオ体操の誕生』)。

1932年(昭和7年)7月には、青壮年向きの体操として「ラジオ体操第2」がつくられました。

戦後、GHQからの示唆などを受け、NHKは1946年(昭和21年)4月13日、戦前から続けてきた初代のラジオ体操の放送を自粛し、終了しました。

現在の「ラジオ体操第1」は3代目となり1951年(昭和26年)5月から、「ラジオ体操第2」は翌52年(昭和27年)6月から放送されています。

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