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中学校の新学習指導要領(平成29年7月告示)で、中学校の保健体育の「武道」に新たに「銃剣道(じゅうけんどう)」が加えられました。銃剣道とは、旧日本軍の戦闘訓練であった「銃剣術」の流れをくむものです。
銃剣術の目的については、「白兵の使用に習熟せしめ、特に剛健なる気力及胆力を養成し、以て白兵戦闘に於ける必勝の確信を得しむるに在り」(陸軍省検閲済『剣術教範』昭和4年)とされていました。
戦前における「殺傷」のための銃剣術から、現代の銃剣道への変遷については、『全日本銃剣道連盟四十年史』(1997)では、次のように謳っています。
「昭和31年4月、従来の銃剣道技術のうち戦技的部分を拭い去り、純スポーツの形態に改めてこれをもって広く国民、特に青少年の人間形成に資するためスポーツ銃剣道として新生をみたものである。
従って今日の銃剣道は過去のそれに比べて全くスポーツとしての性格をもつものであるが、その根底を流れる道としての特性が、ただ単にスポーツマンスピリットだけでなく現代社会人として特に希求される強靭な体力・気力は申すまでもなく道徳性即ち謙譲礼節、克己等々もろもろの精神要素がその修練の中に芽生える格好のスポーツである」。
また、同連盟公式ウェブサイトでは「修練の目標や理論、使術等については槍術や 剣道と全く同様のものであり、 現代社会人としての人間形成に資する」としています。
奈良競馬
奈良県における地方競馬の歴史は、地方競馬規則に基づく競馬場が、昭和4年(1929)10月19日、奈良県生駒郡都跡村尼ヶ辻に開設(約20,000坪)され、同年に奈良県馬匹畜産組合によって第1回が開催されたことに始まります。競馬場は規模が小さいこともあり、昭和14年(1939)12月、平城村秋篠に移転され(中央競馬公認の1周1600m)、戦時中の中断をはさみ、戦後は県営競馬となりましたが昭和30(1950)年には休止となり、昭和43(1954)年には幕が下ろされました。
昭和30年からは競馬場スタンドの周辺にて県営競輪が開催さるようになり、今日まで引き継がれています。
秋篠の競馬場跡地は、現在では走路の幅の分が田畑となり、その外周を道路が通り、住宅が囲んでいます。地図上でも巨大な楕円形を確認することができます。
走路は水田、その外周が住宅地となり、コースの面影が残っています。
《 馬匹改良のために始まった近代競馬 》
1878年パリ万国博覧会に日本から名馬として出された宮内省の2頭は、帰国の際に現地からの引き取り希望が殺到、仏国政府に寄贈されました。日本馬の優秀さの証明と信じて疑わなかった日本政府ですが、実際の評価は「馬ではなく猛獣」であり、改良されていない世界の珍品種として動物園に展示されたのでした。
日清戦争・日露戦争において日本の軍馬が西欧諸国のそれに大きく劣ることを痛感した政府は馬匹改良に着手することになります。馬券の発売を禁止する一方で馬産を活性化させるために競馬の開催を奨励する政策をとっています。
1910年(明治43)年には、馬の生産が行われている地方において地方行政庁が認可を与えた団体(畜産業者の組合など)が行う競馬に対する賞牌と賞金の授与や競馬開催費の補助を定めるなど、地方の畜産組合が地方長官の許可の下に競馬を開催することが可能となりました。