収蔵資料D 身体

陸軍戸山学校編纂「体力養成十分間体操」(1917)

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1917(大正6)年12月25日発行

『市民体操図解』 東京市 (刊行年不詳・1920年代)

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 文部省は、1936年に体操科教材等を示した「学校体操教授要目」を改正しました。東京市では、三橋義雄(社会教育課体育係長)が中心となり、「市民体操」(1924年)、「家庭体操」(1927年)、「青年団体操」(1929年)を相次いで開発しています。

 『図解』では体操の要点や姿勢の留意点等を記し、市民への普及が図られました。

 最も早い時期の市民体操は、「解剖生理の立場より系統的に、組織したもので、頗る容易 に何等の器具をも用ゐないで実行し得るもの」で、老若男女に関わらず、誰でもできる、場所を問わず、どこでもできる、忙しい都市生活の中、短時間でできる、という三つの特徴を備えたものでした。

  朝起床後行うことで、愉快な気持ちで仕事に取り掛かることができ、昼の仕事 の合間に団体で実施すると、心機一転し、愉快な気分で能率を増進でき、夜就寝前に行うと、一日の疲労を回復し、安眠を得ることができると日々の実行を勧めています。

 

*引用文献:関直規(2016192030年代の市民体育の形成過程と体育指導者の特質―東京市の「夜間体育実行会」に焦点を当てて―、東洋大学大学院紀要53

 

大日本国民教育会編 『通俗衛生図解』 (大正期)

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(77×51cm) 

大日本國民教育會/大正8(1919)年

上部には「健康へ行く道」として、早起、清潔、食物や、伝染病の予防、迷信を去ること、公衆衛生などが「無病長寿」へ至る道として示されています。

下部には、白米、甘藷、牛肉など31品目の普通食品分析表があり、蛋白質、脂肪、澱粉糖分、塩分灰分、水分が図示されています。

明治以降、西洋医学が支配的となるにしたがって、身体のどような状態を不調、あるいは機能の障害とみなすのか、さらには心身の捉え方も変化いきました。

そして、家族・個人の「養生」にかわって、「衛生」によって地域社会の病気・身体を国家が管理するシステムがつくられていったのです。

『銃剣道』(昭和16年)

中学校の新学習指導要領(平成29年7月告示)で、中学校の保健体育の「武道」に新たに「銃剣道(じゅうけんどう)」が加えられました。銃剣道とは、旧日本軍の戦闘訓練であった「銃剣術」の流れをくむものです。

銃剣術の目的については、「白兵の使用に習熟せしめ、特に剛健なる気力及胆力を養成し、以て白兵戦闘に於ける必勝の確信を得しむるに在り」(陸軍省検閲済『剣術教範』昭和4年)とされていました。

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戦前における「殺傷」のための銃剣術から、現代の銃剣道への変遷については、『全日本銃剣道連盟四十年史』(1997)では、次のように謳っています。

 

「昭和31年4月、従来の銃剣道技術のうち戦技的部分を拭い去り、純スポーツの形態に改めてこれをもって広く国民、特に青少年の人間形成に資するためスポーツ銃剣道として新生をみたものである。

従って今日の銃剣道は過去のそれに比べて全くスポーツとしての性格をもつものであるが、その根底を流れる道としての特性が、ただ単にスポーツマンスピリットだけでなく現代社会人として特に希求される強靭な体力・気力は申すまでもなく道徳性即ち謙譲礼節、克己等々もろもろの精神要素がその修練の中に芽生える格好のスポーツである」。

 

また、同連盟公式ウェブサイトでは「修練の目標や理論、使術等については槍術や 剣道と全く同様のものであり、 現代社会人としての人間形成に資する」としています。

 

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戦時中の夜間視力増強用内服薬「み号剤」

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「み號劑」の瓶です。(左9×5.5、右8.5×5.5cm)

「み号剤」は「大東亜戦争」末期、日本本土の夜間の防空迎撃戦闘に従事するパイロットのために、昭和20年4月に開発された夜間視力増強用の内服薬です。

成分は、夜間視力向上に効果があるとされるビタミンB2を主剤としたもので、ビタミンB2の成分は日本海北部や朝鮮半島東岸で採れるスケトウダラの眼球から抽出されたもので、飲みやすいように糖衣錠に加工されていました。

 用法・用量は、1日3回食後に3錠ずつを服用するもので、戦闘行動の1日前より服用を開始して、2日間の服用と2日の休止を繰り返します。

 「み号剤」は服用して7時間で効果が出始め、18時間後に最大効果が出るものとされ、夜間の視力向上効果は、服用しない場合の1.44倍であったといわれます。

 「み号剤」は、航空機搭乗員に使用された他、本土決戦に備えて本土各地を監視する防空・沿岸見張り要員や、切り込み隊にも使用されました。

 瓶のガラスは気泡が多く入っており、形も粗雑で戦争末期の逼迫した状況を物語っています。

 

*引用文献:<太平洋群像>太平洋戦史シリーズ(39)『帝国陸軍 戦場の衣食住』学研

 

制空権を奪われ、夜間飛行を余儀なくされた海軍航操縦員の回想録

 

 

 レーダーはまだ開発途中であり装備されていない時代、基地・母艦からの誘導用の電波発信は敵に察知されてしまうことから厳しく制限されていた。そこで、飛行は目視に頼らざるを得ない状況であり、特に夜間搭乗は困難を極めた。

 

*********

 私は指揮所で、いつものとおり出発前の駐車を肩に打ってもらった。牛の目玉から採取した注射液だ、と若い軍医は言っていた。

「牛4頭を殺して、わずかにこのアンプル1本しかとれないのだからなあ・・・・」

 軍医は、2、3回軽く振ったアンプルを眼の高さに上げ、透かして見ながら言った。これを注射すると、夜間の視力が増して不思議によく見えた。

 (中略)

 バシー海峡を渡り終えようとしたころ、右手に遠く陸岸が突き出て見えた。いよいよ台湾の最南端まで来ていた。

「夜間航法もお手のもんだね。今夜もドンピシャリじぇあねえか。ほーら、オランピー岬が見えてきた。見えるだろう。ずうっと向こうに・・・・」

 私は偵察員に賛辞のつもりで言った。

「機長、どこにですか? 私には見えませんが・・・・あっそうか! 機長は例の注射を打ったんでしたね。道理で・・・・」

 偵察員は、見えるのは当然だと言わんばかりの応答だった。数時間前、出発するとき注射した小さなアンプルの効果が、てきめんに現れてきたのだろう。

 

*岩崎嘉秋『ある海軍パイロットの回想 甦った空』文春文庫、pp.271-286

 

 戦が夜のため、この頃(引用者注:昭和20年4月)私たちは牛1頭分の脳下垂体から1本しか抽出できないという、「暗視ホルモン剤」の注射を受けて出発していたのだったが、油洩れのため引き返しとなり、高価なホルモン剤も無駄になってしまったのだった。もっともこの注射をしたからといって、夜でもよく見えたというほどではなかったのだが…。

 

*大澤昇次『最後の雷撃機 生き残った艦上攻撃機操縦員の証言』光人社NF文庫、p.261

 

 

『航空元気酒』

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(高さ13.5、経3cm)

 

くすり広告 清妙膏 万金膏

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(27.5×39cm)

体格がよく、力強い力士は、薬の宣伝によく用いられるモチーフです。

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大日本連合青年団 体力章

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 (1.3cm)

左:中級、右:初級

「大日本連合青年団」は1925(大正14)年に結成され、1934(昭和14)年に「大日本青年団」と改められています。

くすり広告 毒掃丸

明治時代の「薬」の広告

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(38×25cm)

むかしは「身体の中の『毒』が原因で病気になる」と考えられていましたので、その「毒」を体外に出す薬が求められていました。

薬の服用前と服用後の姿を比較した絵の中で、全治の美人と1ヶ月服用した紳士が描かれています。

現代の薬機法(旧・薬事法)のように広告に厳しい規制がない時代ですので、病状及薬の効能には、かなり大げさ、誇大表現が見られます。

くすり広告 脾肝薬王円・胸和散

明治時代の「薬」の広告

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(35.4×50.7cm)

肝臓、脾臓、腎臓、心臓、肺臓それぞれの症状に効果があることを絵入りで紹介しています。病気の症状は深刻ですが、どこかユーモラスが感じられます。

近畿府県連合 健康週間 大阪府 徽章

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(径2㎝)

健康が「個人」の問題ではなく、「家」の繁栄、そして「国家」の益へとつながるものであることが強調されています。1932(昭和7)年刊の医学雑誌の間にはさまれてありました。

前近代の健康と言えば、貝原益軒の『養生訓』が有名ですが、そこには「健康」の語はありません。「健康を保つこと」というように現代語訳されている箇所は、原文では「よくわが身をたもつべし」となっています。

明治となって、新しい時代の健康観をもっとも体系的に繰り広げたのは、啓蒙思想家の西周(にし・あまね)です。彼は、1875年(明治8)年に『明六雑誌』に寄稿した論文のなかで、「人ノ世ニ宝タル者三ツアリ」といい、「第一に健康、第二ニ知識、第三ノ富有ノ三ツノ者」と主張しています。そして、これらの「三宝」を軽視したゆえの報いの到来が、きつく警告されてます。「健康」にたいしての「疾病」、「知識」にたいしての「愚痴」、「富有」にたいしての「貧乏」が、それぞれ「禍鬼」(かき)と罵られています。人間としては本来同等でも、この三宝の多寡・有無によって、おのずから価値に差が出るとしています(鹿野政直『健康観にみる近代』朝日選書,2001)。