奈良競馬
奈良県における地方競馬の歴史は、地方競馬規則に基づく競馬場が、昭和4年(1929)10月19日、奈良県生駒郡都跡村尼ヶ辻に開設(約20,000坪)され、同年に奈良県馬匹畜産組合によって第1回が開催されたことに始まります。競馬場は規模が小さいこともあり、昭和14年(1939)12月、平城村秋篠に移転され(中央競馬公認の1周1600m)、戦時中の中断をはさみ、戦後は県営競馬となりましたが昭和30(1950)年には休止となり、昭和43(1954)年には幕が下ろされました。
昭和30年からは競馬場スタンドの周辺にて県営競輪が開催さるようになり、今日まで引き継がれています。
秋篠の競馬場跡地は、現在では走路の幅の分が田畑となり、その外周を道路が通り、住宅が囲んでいます。地図上でも巨大な楕円形を確認することができます。
走路は水田、その外周が住宅地となり、コースの面影が残っています。
《 馬匹改良のために始まった近代競馬 》
1878年パリ万国博覧会に日本から名馬として出された宮内省の2頭は、帰国の際に現地からの引き取り希望が殺到、仏国政府に寄贈されました。日本馬の優秀さの証明と信じて疑わなかった日本政府ですが、実際の評価は「馬ではなく猛獣」であり、改良されていない世界の珍品種として動物園に展示されたのでした。
日清戦争・日露戦争において日本の軍馬が西欧諸国のそれに大きく劣ることを痛感した政府は馬匹改良に着手することになります。馬券の発売を禁止する一方で馬産を活性化させるために競馬の開催を奨励する政策をとっています。
1910年(明治43)年には、馬の生産が行われている地方において地方行政庁が認可を与えた団体(畜産業者の組合など)が行う競馬に対する賞牌と賞金の授与や競馬開催費の補助を定めるなど、地方の畜産組合が地方長官の許可の下に競馬を開催することが可能となりました。
「み號劑」の瓶です。(左9×5.5、右8.5×5.5cm)
「み号剤」は「大東亜戦争」末期、日本本土の夜間の防空迎撃戦闘に従事するパイロットのために、昭和20年4月に開発された夜間視力増強用の内服薬です。
成分は、夜間視力向上に効果があるとされるビタミンB2を主剤としたもので、ビタミンB2の成分は日本海北部や朝鮮半島東岸で採れるスケトウダラの眼球から抽出されたもので、飲みやすいように糖衣錠に加工されていました。
用法・用量は、1日3回食後に3錠ずつを服用するもので、戦闘行動の1日前より服用を開始して、2日間の服用と2日の休止を繰り返します。
「み号剤」は服用して7時間で効果が出始め、18時間後に最大効果が出るものとされ、夜間の視力向上効果は、服用しない場合の1.44倍であったといわれます。
「み号剤」は、航空機搭乗員に使用された他、本土決戦に備えて本土各地を監視する防空・沿岸見張り要員や、切り込み隊にも使用されました。
瓶のガラスは気泡が多く入っており、形も粗雑で戦争末期の逼迫した状況を物語っています。
*引用文献:<太平洋群像>太平洋戦史シリーズ(39)『帝国陸軍 戦場の衣食住』学研
制空権を奪われ、夜間飛行を余儀なくされた海軍航操縦員の回想録
レーダーはまだ開発途中であり装備されていない時代、基地・母艦からの誘導用の電波発信は敵に察知されてしまうことから厳しく制限されていた。そこで、飛行は目視に頼らざるを得ない状況であり、特に夜間搭乗は困難を極めた。
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私は指揮所で、いつものとおり出発前の駐車を肩に打ってもらった。牛の目玉から採取した注射液だ、と若い軍医は言っていた。
「牛4頭を殺して、わずかにこのアンプル1本しかとれないのだからなあ・・・・」
軍医は、2、3回軽く振ったアンプルを眼の高さに上げ、透かして見ながら言った。これを注射すると、夜間の視力が増して不思議によく見えた。
(中略)
バシー海峡を渡り終えようとしたころ、右手に遠く陸岸が突き出て見えた。いよいよ台湾の最南端まで来ていた。
「夜間航法もお手のもんだね。今夜もドンピシャリじぇあねえか。ほーら、オランピー岬が見えてきた。見えるだろう。ずうっと向こうに・・・・」
私は偵察員に賛辞のつもりで言った。
「機長、どこにですか? 私には見えませんが・・・・あっそうか! 機長は例の注射を打ったんでしたね。道理で・・・・」
偵察員は、見えるのは当然だと言わんばかりの応答だった。数時間前、出発するとき注射した小さなアンプルの効果が、てきめんに現れてきたのだろう。
*岩崎嘉秋『ある海軍パイロットの回想 甦った空』文春文庫、pp.271-286
戦が夜のため、この頃(引用者注:昭和20年4月)私たちは牛1頭分の脳下垂体から1本しか抽出できないという、「暗視ホルモン剤」の注射を受けて出発していたのだったが、油洩れのため引き返しとなり、高価なホルモン剤も無駄になってしまったのだった。もっともこの注射をしたからといって、夜でもよく見えたというほどではなかったのだが…。
*大澤昇次『最後の雷撃機 生き残った艦上攻撃機操縦員の証言』光人社NF文庫、p.261
『航空元気酒』
(高さ13.5、経3cm)