文部省は、1936年に体操科教材等を示した「学校体操教授要目」を改正しました。東京市では、三橋義雄(社会教育課体育係長)が中心となり、「市民体操」(1924年)、「家庭体操」(1927年)、「青年団体操」(1929年)を相次いで開発しています。
『図解』では体操の要点や姿勢の留意点等を記し、市民への普及が図られました。
最も早い時期の市民体操は、「解剖生理の立場より系統的に、組織したもので、頗る容易 に何等の器具をも用ゐないで実行し得るもの」で、老若男女に関わらず、誰でもできる、場所を問わず、どこでもできる、忙しい都市生活の中、短時間でできる、という三つの特徴を備えたものでした。
朝起床後行うことで、愉快な気持ちで仕事に取り掛かることができ、昼の仕事 の合間に団体で実施すると、心機一転し、愉快な気分で能率を増進でき、夜就寝前に行うと、一日の疲労を回復し、安眠を得ることができると日々の実行を勧めています。
*引用文献:関直規(2016)1920~30年代の市民体育の形成過程と体育指導者の特質―東京市の「夜間体育実行会」に焦点を当てて―、東洋大学大学院紀要53
(絵はがき)
日本において近代スキーが定着し始めるきっかけとなったのは、1911(明治44)年、新潟県高田(現・上越市)でオーストリア人のレルヒ少佐が陸軍軍人に指導したことでした。レルヒが伝えたのは杖1本でスピードをセーブし、低速で安全確実にどんな斜面でも滑り降りる技術でした。
1930(昭和5)年、オーストリア人のハンネス・シュナイダーが来日、各地で指導したことにより日本のスキー技術は飛躍的に発展しました。雪上の移動手段から、急斜面でも安定して滑り降りることのできるスポーツへと進化を遂げたのです。
この絵はがきは「サロメ―チール」の販売促進用でスキー場などで配れたと思われます。
サロメチールは1921(大正10)年に田邊元三郎商店(現田辺三菱製薬)から発売されています。1933(昭和8年)には、雑誌にてランニングや剣道、野球などのスポーツ疲労への効能を宣伝しています。1937(昭和12)年、後楽園球場が開設されると外野席に初のフェンス広告を掲示、一層のスポーツ愛好者での利用をうながしました。
(1.3cm)
左:中級、右:初級
「大日本連合青年団」は1925(大正14)年に結成され、1934(昭和14)年に「大日本青年団」と改められています。
わかもと本舗栄養と育児の会
小学校を卒業してから実業家や外交官など憧れの職業になるまでのストーリーが双六になっています。大衆薬の販促品でしたが、価格も書かれていることから希望者には販売もしていたと思われます。
この双六の遊び方は、ちょっと変わっています。右上の「賽の作り方」には、次にように書かれています。
「玩具屋で土の賽を売っていますが、お家で作るにはお餅でも大根でもお芋でも結構、それを立方体(しかく)に切って、『修養』『勤勉』『理想』『病気』『困難』『怠惰』とお兄様か、お姉様に文字を入れて頂ければ立派な賽が出来ますよ」
サイコロが餅、大根、芋を用い、数字ではなく人間の性(さが)を描くようにもなっています。
上りは当時、男の子に人気のあった職業となっています。
かなり傷んでいますが、折り目には幾重にも裏打ちがされていることから大切にされてきたことが伺えます、将来の「夢」を描く子どもたちよって繰り返し遊ばれていたのでしょう。
明治時代の「薬」の広告
(38×25cm)
むかしは「身体の中の『毒』が原因で病気になる」と考えられていましたので、その「毒」を体外に出す薬が求められていました。
薬の服用前と服用後の姿を比較した絵の中で、全治の美人と1ヶ月服用した紳士が描かれています。
現代の薬機法(旧・薬事法)のように広告に厳しい規制がない時代ですので、病状及薬の効能には、かなり大げさ、誇大表現が見られます。
(35.4×50.7cm)
肝臓、脾臓、腎臓、心臓、肺臓それぞれの症状に効果があることを絵入りで紹介しています。病気の症状は深刻ですが、どこかユーモラスが感じられます。